世界農業遺産「能登の里山里海」ライブラリー
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文化・祭礼

祭礼神事

1)概要及びGIAHS的価値について

 能登の祭礼神事の特徴は、古代からの信仰の形が名残をとどめつつ、生業・生活に密着して営まれていることである。それらは、能登の里山里海で営まれる農林漁業や暮らしの一年のリズムに合わせて、4種類に分類できる。

 

 年の初めに行われる「予祝の祭り」、平国祭(3月18日〜23日)に始まる「春祭り」、暑い時期を無事に過ごす夏越しの願いや上半期の厄除け(禊)の意味があり、旧暦の6月に行われることの多い「夏祭り」、輪島大祭(8月20日頃)に始まり、収穫の感謝と来年の無事を願う「秋祭り」である。

 

 さらに、海に囲まれた能登に特有の祭礼として、キリコ祭り、海上渡御の祭り、恵比寿講の祭りなどもある。また、これらの祭礼神事を執り行う神社や鎮守の森は、生物多様性や文化的な価値も持つ。

 


              

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2)背景(経緯〜現状)

@予祝の祭り

1.面様年頭

 輪島市の輪島前神社(輪島崎町)と重蔵神社(河井町)では、神社に伝来する古い仮面をつけた面様と呼ばれる神様が、町内を巡訪し、氏子各家の厄払いを行う、新年の厄除け神事「面様年頭」が行われている。

 

・輪島前神社(輪島崎町)の面様年頭

 輪島前神社では、正月14日と20日の2回、鼻高の面と女郎の面をつけた二人の面様が、供を連れ、各家の厄払いをしてまわる。差し袴に角衣という扮装に面をつけ、その上から大黒頭巾のようなものをかぶり、右手にサカキの枝を持つ。面様は、無言で家々をまわるのが習わしで、入口の戸をサカキで叩いてから中に入り、神棚に礼拝してから、座敷に座る。家の主人が、「面様、おめでとうございます」あるいは「面様、御苦労さまでございます」と挨拶すると、面様は何も答えずに黙って挨拶を受け、次の家へ向かう。14日は「おいで面様」と呼び、山側から順に家々を訪問し、20日は「お帰り面様」と呼び、海側から順に訪問し、山に帰っていくとされる。

 

 漁業に従事する人の多い地元の輪島崎町では、厄払いと同時に、豊漁を祈る行事として続けられてきた。また、子どもの正月の遊びとして受け継がれてきた一面もあり、各戸をまわってもらう餅は、当番の子どもの家で、ぜんざいや雑煮にして楽しむなど、子どもの楽しみのひとつであった 。四柳 によると、「面様」になる子どもは、輪島前神社の世話方の家(社事係)の12、13歳の子どもであった。現在では、小学6年生の男児が執り行う。

 

・重蔵神社(河井町)の面様年頭

 重蔵神社では、正月14日に面様年頭が行われる。この日は「年越し」ともいい、「年越し面様」とも呼ばれる。「面様」は4人で、茶褐色で木製漆塗りの「串ガキ面」と「女郎面」、他の古面をつけ、烏帽子狩衣を着て、手には幣束を持つ。それぞれ1人ずつ供を連れて、分担して河井町の各家々をまわり、厄払いを行う。

 

 面様になるのは、昔から河井町に住んでいる宮年寄り2人と社事係2人である 。「面様」は「メンサマネントウ」と唱えて、各家をまわり、神棚に礼拝し、御幣で祓い清め、祝詞を奏上する。

 

 輪島市の面様年頭は、門前町(現:輪島市)と内浦町(現:能登町)のアマメハギと合わせて、昭和54(1979)年、「能登のアマメハギ」として、国の重要無形民俗文化財に指定されている。

 

2.ぞんべら祭り

 能登の祭りは、新春の祈年行事から始まる。なかでも、豊作の予祝行事として注目されるのが、門前町(現:輪島市)鬼屋神社のぞんべら祭り(2月6日)と櫛比神社の万歳楽土(2月12日)である

 

 ぞんべら祭りは、古老が神前で、巻物の「農之次第」を読みながら、農作業の過程を演じる。円形の大餅に長い棒をさし、左右にまわして、糸車の操作をあらわす。続いて、田のあら起こし、畦ぬり、苗代ごしらえ、種まき、牛ひき、あらくり、肥料いれ、苗ほめなどを演じて、タバコ(休息)となる。その後、氏子の少女が、苗に見立てた青い松葉を使い、拝殿で田植えのまねごとをし、古い田植え歌が太鼓にあわせて歌われる。続いて、田囃子となり、参列者一同が、コゴメの細枝で床をたたいて豊作を念じる。

 

 ゾンベラという名称は、大餅で居並ぶ村人をゾンブリベロリンとなでるからだとか、鍬で水田を打つとザンブリと音をたてるからだともいわれているが、明らかではない 。また、水がゾンブリ沢山という願いをこめた掛け声だともいわれる

 

 ぞんべら祭りの6日後の2月12日、鬼屋神社と関係の深い櫛比神社(輪島市門前町走出)では、万歳楽土祭りが行われる。拝殿で、実りの表現とされる舞が奉納され、人々が「マンザイロクト」と繰り返しはやす 。ぞんべら祭りと万歳楽土は、一連の行事であり、年頭にあたり農作業の順調と五穀豊穣を予祝する祭礼として注目される。

 

3.もっそう祭り

 輪島市久手川(ふてがわ)では、2月16日の早朝、大盛りの米飯を食べ合う「もっそう祭り」が行われている。かつては、久手川町の4地区で行われていたが、現在も続いているのは2地区のみで、その中でも古式どおりに続けているのは、大字宮前、堂山(どうさん)からなる本村(ほむら)地区だけとなっている。また、昭和中頃までは、2月16日の朝と3月15日の北神社の春祭りの朝の年2回行っていたが、現在では、2月16日の年1回だけの行事となっている

 

 本村地区は、現在、16軒からなり、3班に分かれている。3班が輪番で祭りの当番を行い、その年の当番班のうちから1軒が祭りの宿を提供する。宿は、くじびきで決めることが慣例だが、同じ家が続いたりすると話し合いで決める場合もある。


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 祭りの料理は、前日、当番班の女性たちが準備する。料理は、円筒形に盛り上げた白飯5合、魚(めぎす)の団子汁、大根と人参の酢の物、ワラビのからし和え、ゴボウの唐辛子味噌和えである。食器は、朱塗りの輪島塗のお椀とお膳である。米は、班のメンバーがもちより、祭りの朝4時に炊き始める。

 

 もっそう飯をこしらえる道具は、アテ材でつくられた円筒形の曲げ物「ワッパ」である。小倉 によると、この道具は、ヒワとも呼ばれ、昭和以降は5合、それ以前は8合の白米を盛り上げた。また、盛りつけは、当元(祭りの当番)の男性が行う慣習であった。もっそうとは、白飯の量をはかりながら盛ることで、もっそう飯は、盛り切りの飯といわれている 。ワラビは、前年、班のメンバーが採取し保存しておいたものを使う。汁の具は、かつては小豆と大根菜であった。

 

  祭りの当日は、他の2班の参加者が集まる前に、当番班の女性たちが料理を器に盛り、男性たちがそれを座敷に運び、御膳を他班の家の数分用意する。平成24(2012)年は、12膳であった。料理を盛った御膳は、本村地区の辻にある堂様(観音堂)にも供える。朝6時近くなると各家から1人ずつ参加者が集まり、空いている御膳の前に座り、参加者が揃うと食べ始める。白飯は食べきれないので、持参した重箱に詰めるなどして、器をきれいにした人から帰っていく。当番の者は給仕に徹し、お酌をしたり、おかずのおかわりを運んだりして、この時は食べない。全員が帰った後、堂様から御膳をさげ、いただく。


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 祭りで使う米は、現在は当番のメンバーが持ち寄るようになっているが、1960年代頃までは、地区の共有地の隠し田で収穫したものだった。小倉 によると、久手川町の氏神である北神社には、久手川町の4区ごとにそれぞれ宮田と地蔵田があった。宮田と地蔵田は、それぞれの区の住民が、毎年4戸ずつ当元となって耕作し、宮田の収穫は、北神社の春祭り(3月14,15日)の朝、地蔵田の収穫は、区ごとに開催される地蔵講(2月16日)の朝に、それぞれの区の当元の家で行われるモッソウ祭りの米飯に用いられたほか、余分は当元の収入となっていた。

 

 宮田や地蔵田は、集落から遠く離れた山奥にあり、農業として採算のとれるところではなかった。2区の地蔵田は、昭和33(1958)年頃の水害で崩壊したため、2月の地蔵講が中断してしまった歴史があるという。もっそう祭りは、約300年前から続いているといわれ、藩政時代に、年貢米の取り立てが厳しく、飢えをしのぐために隠し田の収穫をこっそりと腹いっぱい食べたのがその起こりとされる。また、その年の豊作の願いをこめた予祝の大食い祭りともいわれる

 

4.年占の神事

 一年の豊凶等の神意をうかがう「年占」の代表的なものとして、須須神社(珠洲市寺家)の的打神事(3月15日)、日桂神社(輪島市柳田)の弓ひき祭り(4月3日)、気多大社(羽咋市寺家)の蛇の目の神事(4月3日)があげられる。いずれも弓で的を射て神意をうかがう年占の行事である。気多神社では、祭神が毒蛇を射止めて退治したことを模したものだとされているが、実際は、中世の流鏑馬が歩射となったものである

 

A春祭り

1.平国祭

 能登の春祭りは、能登一の宮として知られる気多大社(羽咋市寺家)の平国祭から始まる 。現在は、3月18日の早朝、気多大社を出発し、おみくじで選ばれ、背に御幣を立てた神馬、先導車を先頭に、神職(乗馬)、 威儀の物(長柄鎌、順に広矛、社名旗、太鼓、唐櫃、錦旗、四神族)、奉持、 祢宜(乗馬)、神輿、同台、宮司(乗馬)、献備箱(車)、長持(車)、 宰領(車)、長持(車)、神輿台車(車)、神職、馬丁、 白丁(宰領、威儀物奉持、神輿かつぐ役)等、総勢60名の行列が仕立てられ 、約300キロの行程を5泊6日かけ、七尾市の気多本宮に赴くという大規模な渡御祭で、「おいで祭り」とも呼ばれる。

 

 春の大祭にあたっては、本宮である気多本宮に赴いて神祭するという創祀の由緒に基づく。享保16(1731)年の気多大社縁起によれば、古くは「二月御神事」と呼ばれ、「前後十日は国中の人民潔斎して能登の神の御出」だといって、沿道の住民が出迎えたという。現在も「寒さも気多のおいでまで」といわれ、地域住民に親しまれるとともに、春耕の到来をつげる生活暦ともなっている。

 

2.青柏祭

 能登の春祭りを代表するのが、大地主神社(七尾市)の青柏祭の曳山行事である 。かつては、5月14〜15日に行われていたが、現在は、5月3日〜5日に開催されている。

 

 祭名は、青い柏の葉で神饌を盛ることからきている。高さ13メートル、車輪の直径2メートル近くもある、扇を末広に開いた形状(ヒラキ山)を呈する「デカ山」とよばれる巨大な曳山が、鍛冶町、府中町、魚町の3町から1基ずつ奉納される。デカ山は、金具を用いず、材木を組み立て、縄と藤づるで結束し、むしろで包み、幕を張り、横正面に舞台を設け、時代人形を飾り、松を立てる。定めの日に車出しし、組み立て、町内で人形見をして披露する。

 

 5月3日の夜から4日の正午にかけ、3町から神社に曳き入れ、祭祀後に、鉦、太鼓、木遣音頭にのって、市中を曳き回す。5日には、裏山の行事がある。約30トンというデカ山を、後見役の指示のもと、木遣音頭にあわせて住民が曳き、大梃子を用いて方向を転換する。貞享2(1685)年の記録にもすでに見られる伝統行事であり、規模雄大にして豪放素朴、しかも地域の生活に密着して執り行われる、能登を代表する祭礼のひとつである。

 

 また、青柏祭の曳山のスタイルを模した行事は、能登半島の東側によくみられる。春は、能登町宇出津、秋は、内浦町(現:能登町)白丸、珠洲市蛸島、上戸、正院川尻などで、曳山の祭礼が行われている。当時、能登の政治・文化の中心地であった七尾の祭礼行事が、周辺地域へ及ぼした影響をみることができる。青柏祭の曳山行事は、昭和58(1983)年、国により重要無形民俗文化財に指定されている。


  

 写真 青柏祭

 

3.伴旗祭り

 能登には、海上渡御の祭礼も多く、5月2、3日に開催される御船神社(能登町小木)の春祭り「伴旗祭り」が有名である。町内を巡幸した神輿を、二艘の漁船の間に数本の太い丸太を並べてつくった台の上に乗せ(神輿船)、満船飾(まんせんしょく)の漁船を先頭に、各町内から出された10隻の伴旗船とともに、九十九湾内を周回する。

 

 伴旗(ともばた)は、豊漁祈願の言葉が書かれた20メートルの旗の上に、5色の吹き流しとクス玉をつけた幟(のぼり)で、競争意識からどんどん大きくなっていった。伴旗は、子どもが中心になって作る。かつては「御船祭り」と呼ばれ、4月17、18日に行われていた。

 

 昭和43(1968)年の朝日新聞社編「奥能登」 によると、当日は、高さ4メートルもある幟、大漁旗、吹流し、クス玉などで飾り付けた30艘ほどの漁船が港を練ったという。この地には、大国主命が北陸に軍船を進めたとき、時化にあい、九十九湾に避難し、船に神旗をかかげて海上安全を祈願したところ、海が穏やかになったという伝説が残っており 、これを起こりとして、昭和3(1928)年頃に始まったといわれる。もともとは、艫に旗を立て、北洋漁の門出を祝う行事として、2月25、26日に行われていた


  

 

 B夏祭り

 能登の夏祭りは、7月初めから8月中旬にかけて行われ、キリコあるいは奉燈とよばれる長方形の巨大な行燈が担ぎ出され、祭礼の中心となるので、キリコ祭りや奉燈祭りの呼び名がある ほか、神様が夕涼みするとして、オスズミ祭り(納涼祭)と称するところも多い。祭りは夜に行われることが多く、神社にキリコが参集し、神輿のお供をして、お旅所(多くは海浜や川岸といった水辺や広場)に渡御し、祭祀を執り行い、小休あるいは一泊して、神社に戻ることが一般的である。また、海上を渡御する場合もある。

 

 キリコの数や規模は、祭りにより大きな差異がある。高さ10メートル以上で、数十人の若衆に担がれるキリコもあれば、1本だけ、あるいは、数十本が集まり乱舞する祭りもある。火祭りを伴うことが多いことも特徴で、お旅所に大きな柱松明を立て、神輿が近づくと炎上させ、その周辺をキリコが駆け巡る祭りもある。

 

 夏祭りは、大きく「祇園祭に由来するもの」と「夏越しの神事に由来するもの」の2つに大別される 。前者の代表が、八坂神社(能登町宇出津)のキリコ祭り(あばれ祭り)と石崎奉燈祭り(七尾市)である。一方、後者は、1年を2期にわかつ折り目の6月末日に、ミソギ祓いをし、心身を清め、秋を迎えようとする古い民俗にもとづく神事で、そこから発展した代表的な夏祭りが、能登島向田の火祭り(七尾市)である。

 

 また、夏越しの祓えとして、今もミソギの様子をよく伝える祭りに、住吉神社(輪島市里町)の水無月祭りがあげられる。7月30日の夜、神輿がキリコを従えて海浜に渡御し、柱松明の火の粉を浴びながら浜辺に出て、ショウグリ(塩垢離、しおごり、海水でミソギをすること)の行事を行う


1.あばれ祭り(宇出津のキリコ祭り)

 能登町宇出津に鎮座する八坂神社のキリコ祭りは、以前は7月7日と8日に行われていたが、現在は7月の第一金曜日、土曜日に行われている。初日、白山神社と酒垂神社の神輿が、それぞれの氏子の町内を渡御し、夜になると、各町内より50基近くのキリコが、宇出津湾の東岸(棚木海岸)に勢ぞろいし、列をなす。その後、波止場の広場に作られた燃えさかる松明の周辺を乱舞する。

 

 キリコの形態は、時代とともに変化しており、以前は、高さが5間(9m)あったが、現在は、3〜3.5間(約6m)ほどである。キリコの灯りも、以前は、蝋燭を20本以上ともしていたが、現在は、バッテリーを使用している。

 

 翌日の夜は、キリコが西海岸(酒垂海岸)に並び、神輿のお供をして、山手にある八坂神社に帰社する(入り宮道中)。途中、神輿を海中や燃えさかる火の中に投げ入れたりするが、乱暴に扱えば扱うほど神様が喜び、悪疫退散するという。かつて、この地に悪疫が流行したとき、京都の祇園の神を祀り、疫神の退散を祈ったのが起源だといわれ、祇園信仰系の祭りに、能登のキリコ祭りと火祭りが習合し、発展した大規模な夏祭りとして注目され 、平成25(2013)年3月には、国立歴史民俗博物館(千葉県佐倉市)でも常設展示されることとなっている。


2.石崎の奉燈祭

 漁師町である七尾市石崎町の八幡神社の夏祭り「石崎奉燈祭」は、現在、8月の第一土曜日に開催されている。この祭りは、石崎八幡神社の納涼祭(お涼み)が、度重なる大火が原因で、明治22(1889)年、網すき(網大工)の口添えにより、奥能登より古いキリコが移入され、始められたものである。

 

 大火以前のお涼みは、祇園系の山車だったといわれ 、平成7(1995)年までは、京都祇園社の例祭日にあたる旧暦6月15日に行われていた。現在、奉燈の本数は、高さ12〜15メートルもある大奉燈が7基、小奉燈が7基であり、以前に比べると、本数や規模は増加傾向にある。小倉 によると、1960年代当時は、高さ10メートル程度の奉燈が6本であった。

 

 夜には、奉燈に灯火が献じられ、浮かび上がった武者絵や大書の墨字が、幻想的な空間を醸し出す。1基を100人程度の若い衆が担ぎ、神輿の周囲を、笛、太鼓、鉦の音や「サッカサイ、サッカサイ、イヤサカサ―」の掛け声にあわせ、威勢よく奉燈を練りまわし、絢爛豪華な奉燈の乱舞を展開する。能登観光の目玉のひとつとして脚光を浴びており、例年、多くの観光客を集める祭礼である。

 

3.向田の火祭り

 伊夜比盗_社(七尾市能登町向田)では、7月31日に火祭りが行われる。海岸近くの境内の広場に、巨大な柱松明が立てられ、暗くなった後、神輿が大小のキリコを従えて渡御する。柱松明は、能登随一の大きさといわれ、高さ15メートルもある大木を心木とし、その周囲を800束の柴で覆う。心木の上には、十数メートルの青竹が立てられ、先端には御幣がつけられる。準備は、約一カ月前より、年齢階梯制の氏子組織により進められ、祭礼前日、柱松明が長時間を要して立てられる。

 

 神輿とキリコが柱松明の周辺を巡り、神事が終わると、若衆が、燃えさかる手松明をふりかざし、柱松明の周囲をまわる。合図とともに、柱松明めがけて手松明が投げつけられると、巨大な火柱が天に立ちのぼり、壮烈な火祭りが展開される。火が収まった後、心木を引き倒し、青竹の先端にある、手に入れると幸運に恵まれると信じられている御幣の争奪が始まる。また、柱の倒れた方向により、豊作や豊漁を占う習俗もあり、山手に倒れたら豊作、浜手なら豊漁という。

 

 向田の火祭りに代表される能登のオスズミ祭りは、夏越神事の意味を持つと考えられており、火の神を斎(いつ)き、その神火により、夏熱暑毒の邪気を祓い、息災延命を祈るものである。

 

 4.御陣乗太鼓(名舟大祭)

 太鼓は、神輿の渡御やキリコの運行において、笛や鉦とともに、重要な役割を有する。加賀の豊年太鼓は、虫送り行事から発展したのに対し、能登では、祭り太鼓が発展した。特に有名なのが、7月31日と8月1日に開催される名舟白山神社(輪島市名舟町)の祭り(名舟大祭)において、氏子により神にささげられる奉納太鼓、御陣乗太鼓である。

 

 伝説によると、天正5(1577)年、上杉謙信の能登攻略の際、古老の一計により、樹皮で仮面を作り、海藻を頭髪とし、陣太鼓を打ち鳴らし、上杉軍に奇襲をかけ、敗走させた。村人は、名舟沖にある舳倉島の奥津姫神の御神徳によるものとして、毎年、奥津姫神社の大祭において、氏神への感謝を表すため、再現演出する、これが御陣乗太鼓といわれている。現在、戦に関する字が当てられているが、以前は、ゴゼンジョダイコといったことから、御神事太鼓の意味だとも考えられている

 

 名舟大祭では、7月31日の夜、白山神社の神輿が海岸に渡御し、お仮屋で一泊し、翌日帰社する。かつては、この神輿渡御の際、先駆する太鼓山車に、異様な装いをした仮面ものが乗り込み、太鼓を打ち鳴らした。その後、これが芸能化し、御陣乗太鼓となった。現在は、7月31日と8月1日の両日、海岸の特設舞台で披露されている。大太鼓を中央に据え、夜叉、デカメン、女幽霊、海坊主などが、次々とあらわれ、太鼓を打ち、最後は、回り打ちをする。

 

 御陣乗太鼓は、地元出身者しか叩くことができないとされ、メンバーは全員地元の名舟町出身者で構成される。継承の意味合いを込めて、昭和35(1960)年頃、御陣乗太鼓保存会が結成され、昭和38(1963)年には、石川県の無形文化財に指定された。平成22(2010)年時点で、30〜60代の男性20名がメンバーとなっている

 

C秋祭り

 秋の収穫期を迎えると、1年の五穀豊穣に感謝する秋祭りが各地で行われる。能登各地の集落では、神輿やキリコ・奉燈がくり出されるほか、大きな枠旗が立て連ねられたりと、華麗な祭礼が展開される。能登の秋祭りは、8月下旬の輪島市重蔵・住吉・輪島前の3社の大祭(輪島大祭)で始まる。また、寄り合い祭りの代表的なものとして、七尾市中島町の久麻加夫都阿良加志比古神社(くまかぶとあらかしひこじんじゃ)の9月20日の大祭(通称、お熊甲祭)がある。

 

1.輪島大祭

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 輪島市の重蔵・住吉・輪島前の3社の大祭で、8月23日から26日にかけて行われる。形式は、3社とも同様で、夜になると神輿がキリコを従えて海浜に渡御し、柱松明炎上の行事を行い、海岸のお仮屋に一泊し、翌日、氏子が町内をまわる。

 

 昭和43(1968)年からは、輪島市沖約50キロの海上に浮かぶ舳倉島の神社の祭礼も同時に行うようになった。神輿海中渡御が、23日と24日の夕方、輪島市海士町で行われ、女装した若衆らが、23日は河井浜、24日は袖ヶ浜へおもむき、神輿を担いで海に入る。神輿には綱がつけられ、陸で子どもたちが綱を引くと、負けじと海の若衆が海に引き込む

 

 輪島大祭の期間は、古くからお斎市がたち、近郷から生活物資を購入する人出が多く、地方の生活と密着した大規模な祭礼であることが特徴である

 

2.お熊甲祭り

 七尾市中島町では、9月4日から10月9日までの1カ月以上におよぶ期間、鉦や太鼓の音が、町内のどこかの集落から聞こえ、「祭り」一色となる。祭りでは、20mを超える深紅の大旗(枠旗)を担いで練り歩く、枠旗祭りが行われる。枠旗祭りには、各集落の氏神社の祭礼(小祭)と、中世以来の由緒ある惣社(総本社)を中心に各集落がより集う「寄り合い祭り(大祭)」がある


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 最も規模が大きな祭礼は、久麻加夫都阿良加志比古神社(くまかぶとあらかしひこじんじゃ)において、9月20日に行われる大祭(通称、お熊甲祭)である。延喜式内社に充てられる古社で、近郷22地区19社の総本社である。各地区では、前夜、本社から奉幣を迎え、翌20日、氏神社の神輿をはじめ、長大な枠旗を担ぎ、猿田彦を先頭に、鉦、太鼓を鳴らし、本社に参入する。祭祀後は、神輿と枠旗が、加茂原(お旅所)まで渡御する。加茂原では、お練りが行われ、時計と反対廻りに3回廻る。

 

 枠旗は、真紅のラシャ製で、長さ15メートル、旗竿の高さは20メートルもある。各地区では、平均90人から100人の人足を必要とするが、枠旗を担ぐ人足が足りない小さな地区では、隣郷の地区とユイ(労働交換)をして、要員を確保する慣行があるのも特徴である 。昭和56(1981)年には、「熊甲二十日祭の枠旗行事」として、国の重要無形民俗文化財にも指定された。

 

3.鵜祭り

 気多大社(羽咋市)の鵜祭りは、本来、新嘗祭に連なる神事と考えられるが、年の吉凶を占う祭りでもある。七尾市鵜浦海岸の断崖で生け捕りされた鵜を、鵜捕部が2泊3日かけ、12月14日に神社にとどける。2日後の16日早暁、本殿前方で放たれた鵜は、本殿内の神鏡の台にとまったところで神職に捕りおさえられ、その後、海岸で放たれるという神事である。

 

 鵜の神前への進み具合により、翌年の吉凶を占う習俗が古くからあり、加賀藩祖の前田利家が、鵜が例年にまさり神前へよく進んだことを聞き、国家の吉事だと喜んだという書状も伝来する。文献的にも石川県下で最も古い特殊神事である 。平成12(2000)年には、「気多の鵜祭の習俗」として、国の重要無形民俗文化財に指定されている。

 

Dキリコ祭り

 能登の夏祭りや秋祭りには、キリコ(奥能登地方)やオアカシ、奉燈(中能登地方)と呼ばれる巨大な御神燈が、神輿のお供として、氏子らにより威勢よく担ぎ出される。キリコは、高さ12メートル、重さ2トン、担ぎ人数が100人という、石崎奉燈祭り(前述)のような大きなものから、幼児が数人で担ぐ小さなものまでさまざまである。能登各地の祭礼で使用されるキリコの合計は、600〜700基とされている。

 

 キリコが担ぎ出される祭りを総称して「キリコ祭り」と呼ぶが、その範囲は、奥能登の珠洲市の先端から、南限は、口能登の志賀町百浦から七尾市能登島を結ぶ線である。キリコ祭りの数は、200近くあるといわれ、それぞれの地域の気候風土や気質と深く結びつき、集落ごとに形状や規模、構造が異なる

 

               
  

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 キリコは、神様の乗り物である神輿のお供であり、夜道を照らす灯りでもある。キリコの起源は、一般的には、地域で、笹ギリコ、レンガクなどといわれ、神輿渡御に供奉して道中を照らしていた小型のものが、大型化したと考えられている 。技巧を凝らした大型のキリコがあらわれ始めたのは、文化・文政年間(19世紀前半)だと推測されている。

 

 藩政後期には、奥能登各地の夏祭りで、大型キリコが、町内、組ごとに競いあって出されていたことが文献でも残っている。文化5(1808)年、輪島市の祭礼の条には、「切籠」の字が見られれるほか、内浦町(現:能登町)松波神社誌には、文化8(1811)年の祇園祭りに、初めて、11メートルの大キリコが登場したとある。19世紀後半になると、輪島では、経済力を有する漆器を取り扱う豪商が増え、10メートル以上の輪島塗の巨大なキリコを、単独で祭礼に出す「1軒出し」も見られるようになった

 

 キリコは、担ぎ出す町内組織の団結のシンボルでもある。電線のなかった明治時代までは、各地の祭礼で、巨大なキリコが担ぎ出されたが、現在は、電線による高さ制限や若者などの担ぎ手不足により、高さ4〜6メートル、担ぎ手20人前後というものが主流となっている。能登では、盆正月に帰らない人もキリコ祭りには帰ってくるというほど、キリコ祭りは、能登の人にとっては思い入れの強い祭りである。

 

E海上渡御の祭り                               

 三方を海に囲まれた能登には、寄り神伝承が多く、船に神輿を乗せ、海上を渡り、祭祀を行う、海上渡御の祭礼が多く見られる。村に祀られた、海の彼方から来たと伝わる神の記憶を再現するとともに、港町においては、航海安全、漁村においては、安全と豊漁を祈願する意味があるとされる。

 

・春祭りでの海上渡御

 春祭りでは、能登町小木の御船神社の春祭り「伴旗祭り」(前述)における海上渡御が有名である。町内を巡幸した神輿が、御座船に乗り、豊漁祈願の言葉を書いた旗をつけた10隻の伴旗船とともに、湾内を巡り、恵比寿神社の方角に向かう。かつては、能登町越坂(おっさか)でも伴旗をともなう海上渡御があった。

 

 能登町真脇では、4月11、12日の春祭りに、高倉神社の神輿に、恵比寿神が加わり、巡幸が行われる。かつては、恵比寿堂に安置してある像を、舟形の台に乗せ、漁民が担ぎ、大漁旗を立てた漁船に積み、湾内を回った後、浜辺で見守る神輿のところに戻る行事が行われていたが、船による海上渡御は廃絶した。恵比須は、現在、神輿の巡幸とは別に、漁業関係者宅を回っている。また、隣の姫地区でも、3隻の伝馬船をつないだイカダに、神輿と袖キリコを乗せる海上渡御があった。

 

・夏祭りでの海上渡御

 夏祭りでは、七尾市の塩津のウスズミ祭り(7月第4土曜日)、輪島市の名舟大祭(7月31、8月1日)、穴水町甲(かぶと)の曳き舟祭り(8月中旬)などで、海上渡御の祭事がみられる。

 

 七尾市中島町塩津のウスズミ祭りは、近年では、塩津かがり火恋祭りと呼ばれ、観光客を多く集めるキリコ祭りのひとつとなっている。内陸部に鎮座する日面社から、キリコ、神輿、太鼓、鉦、猿田彦が地区を巡幸し、御座船に乗り、海上に漕ぎ出る。海岸部の唐島社からも御座船が出発し、海上で二神の逢瀬が行われる。この時、神様の道案内として、2000個の蓮の葉灯明が海に流され、海上を照らす。

 

・秋祭りでの海上渡御

 秋祭りでは、志賀町の福浦祭り(8月最終土曜日)、穴水町岩車の奈古司神社の秋祭り(9月22、23日)などで、海上渡御が行われる。福浦祭りは、猿田彦神社(志賀町福浦)の祭礼で、かつては、9月10日から12日に行われていた。現在は、8月の最終金曜日と土曜日を、前夜祭、本祭りとしている。前夜祭では、御座船(神船)選定の儀式が行われる。本祭りでは、お祓いを受けた神輿の担ぎ手が、お発ちの舟唄を歌いあげ、天狗を先導に、神輿が福浦港まで渡御し、神船に乗せられ、海上を渡御する。

 

 七尾市の富山湾側の漁村では、庵町百海から白鳥日吉神社へ帰社する際、鳴り物入りで送る「カンカン祭り」と呼ばれる臨時祭が行われる。庵地区は、七尾市の東海岸線4Km近くを所有する漁村で、一帯は、古くから大敷網漁が盛んな地域である。地区の神社が、隣の江泊町に合祀されたため、浦祭りに神輿を船に乗せ、笛、太鼓、鉦を鳴らしながら、白鳥日吉神社まで送る。

 

 穴水町岩車の秋祭りでは、神輿の乗った船が、約2.5m沖合の古宮(宮の浦)まで海上渡御を行う。夜、海岸にキリコが参集し、古宮より帰社する神輿を迎える。その後、キリコと神輿は集落を一巡し、日付が変わる頃に帰社する。鋳物師集落として知られる穴水町中居の船祭は、鋳物師が、中居南、麦ヶ浦の中ほどに職能神を祀り、中秋の名月の日に、そこで祭礼を行っていたことに由来するといわれる。 居住地から遠いため、船を用いて海上を渡ることが行われる。


F恵比寿講祭り

 能登の漁村には、漁業の神として、恵比寿へのあつい信仰がみられる

 

・外浦(輪島市)

 輪島市輪島前神社の蛭子堂では、起舟前日の1月10日を「おでまし恵比寿」、11月20日を「お帰り恵比寿」と称し、御神体のエビスの神像を、当番が抱きかかえ、町内を残らずまわる。1月は山手より海辺へ、11月は海辺より山手へ順にまわる。氏神社に祀られているエビス神が、1月10日、海へおでましになり、漁を守り、11月20日に、海から帰ると信じられている。

 

・内浦(珠洲市〜七尾湾)

 能登町真脇の高倉神社の春祭り(4月10、11日)では、恵比寿堂の祭りも合わせて行われる。恵比寿像を舟型の台に乗せ、漁師が浜まで担ぎ出る。その後、大漁旗を立てた漁船に乗せ、湾内を回り、浜の神輿のもとへ戻り、漁業関係者の家をまわる。

 

 七尾市能登島町祖母ヶ浦では、7月20日、「えびす祭り」が行われる。宮に祭られている恵比須を、地区内の漁港で、紅白の幕と大漁旗で飾った曳船に乗せ、漁船で曳き、鉦、太鼓を叩きながら、沖合の漁場へ向かう。漁場で1周し、神主の祝詞の後、御神酒を捧げ、大漁、安全を祈る。

 

 恵比寿の祭りは、9月の秋祭りと合わせて行われることもあり、内浦町(現・能登町)布浦の松島恵比寿祠の祭り(9月10日)では、漁業者が、旗を立てた舟で、恵比寿像が安置された祠に参集し、豊漁を祈願する。珠洲市森腰の恵比寿堂の祭りは、片姫神社の秋祭り(9月11日)と合わせて行われる。

 

・能登灘浦

 富山湾に面する七尾市灘浦一帯では、海岸部にエビス神を祀る魚取社(なとりしゃ)が点在する。事代主神を祭神とする魚取社は、一般にはエビス堂とよばれ、漁師から厚く崇敬されている。エビス堂では、春の6月20日と秋の11月20日の年2回、エビス講が催される。

 

 春のエビス講は、アオバツカとも呼ばれ、現在は、町会役員や漁業関係者等によって宮祭りだけが行われているが、昭和30年代頃までは、春秋のエビス講の日には、網単位、あるいは船単位で、船元や船頭、オモテ(オモテ乗り)の自宅に、水主たちを招き、盛大な祝宴が催された。秋のエビス講(秋の魚取祭)も、各在所のエビス堂(魚取社)で営まれ、春のエビス講同様、町会長はじめ町会役員や漁業関係者等が参詣するが、宮祭りだけが行われている。

 

 これとは別に、七尾市庵町の「岸端定置網組合」では、組合主催のエビス講(魚取祭)も行われ、神主を招き、豊作と漁の無事・安全が祈願される。エビス講の時分は、鰤漁が本格化する時期にあたり、当日の朝の漁であるアサコで水揚げされたブリが、網初穂として神前に供えられる。祭祀後の直会では、供物のブリのお下がりが振る舞われ、漁師にとってもブリの初物となる。

 

3)特徴的な知恵や技術

@キリコ・奉燈を作る技術

 キリコ・奉燈は、地元の材を利用して、地元の大工の技術で作られてきたものである。輪島市のキリコ祭りでは、大勢がキリコを担ぎ、練り歩き、乱舞するため、それに耐える強靭さが求められる。材質は、主要な部分にはアテが使われ、特に重量のかかる部分には、樫の木が用いられる。各地区には、キリコ大工といわれる人がおり、その地域のキリコの製作にあたることが多かった

 

 能登町宇出津のキリコ祭りでは、祭礼前に、解体してあるキリコを、子どもの手により運び、若い衆が組み立てる。これを「キリコおこし」といい、子どものころから少しずつキリコに関わることで、組み立てる手順や技術を覚えていく

 

 珠洲市でも、すべてのキリコの主材質は、アテである。カタネ棒(担ぎ棒)はアカマツ、前方・後方でカタネ棒を連結する、幅の広い板「セキイタ(関板)」にはケヤキが用いられる。大きなキリコでは、屋根の部分に桐なども用いた。木工職人であれば、キリコを作ることができ、ほとんどが地元の大工によって作られている

 

 門前町(現:輪島市)では、かつては、キリコ製作は、主として地元大工があたっていた。材料は、アテなどが主で、スギ材もあった。墨を塗り、漆や柿渋をかけるという素朴なものが多く、後にカシューなどの塗料も使われるようになった。近年は、輪島塗の高級・高価なものが担がれるようになり、製作も地元ではないことが増えている

 

 内浦町(現:能登町)では、キリコの材質は、柱にはアテが好まれ、材の芯を取ることを嫌った。担ぐ板棒は、カタネボウと呼び、アテのほか、スギを用いることもあった。塗装は、初めはされず、白木だったが、近年は、輪島塗のものが出現し、彫刻物は、金色塗りが多くなった。キリコは、町内の集落や隣町村から購入したとの記録もあるが、地元の指物大工も作ってきた

 

A枠旗を作る技術

 お熊甲祭りに代表される枠旗祭りの「枠旗」も、地元の材や技術に支えられている。枠旗の竿は、年輪が細かく、真っすぐなアテかスギの丸太材が使われる。20m余りの長さが必要とされ、条件に合う材を、町内の山で隈なく探し求める。材を探し出し、切り出し、乾燥し、加工する作業は、壮年団の責任と奉仕により行われている。

 

 材を切りだしてから使えるようになるまで、2年かかるといわれ、最初の1年は、山で乾燥させ、次の一年は、体育館などで、砂袋の重りを付けてゆがみをなくし、真っすぐに乾燥させる。枠旗の組み立て、旗起こしは、祭りの早朝、集落の広場や周辺道路上で行われることが多い。枠竿の飾りの縛り方や、枠旗の転倒を防ぐ張り綱の竿への縛り方などは、技術が必要となる。

 

 竿の先の飾り(ドンボコ、ドボンコなどといわれる)が、祭りの途中に解けることは、恥とされる。綱の縛り方や組み立ての手順、部品の名称などは、集落の年配者が、壮年団を指導しながら、あるいは、壮年団の先輩から後輩へ、指導しながら伝えられる。

 

4)生物多様性との関わり

@祭礼神事を執り行う神社林(鎮守の森)

 祭礼神事が行われる神社は、うっそうとした社叢林に囲まれていることが多い。これらの社叢林の中には、能登の原生林である暖地性のタブ林、スダジイ林、ウラジロガシ林などのヤブツバキクラス域の常緑広葉樹林がみられることが少なくない。能登では、常緑広葉樹林は、人間が手を加える以前は、標高300m付近までの陸地を覆っていたと考えられている。

 

 特に、能登の内浦側では、タブ林が、直接、海にその影を落とし、外浦側では、冬の季節風の影響で、ケヤキ林が成立していたと考えられている。このような自然植生は、繰り返し伐採されることにより、里山の主要な構成種であるアカマツやコナラの二次林に変わっていった。

 

 しかし、一部の自然植生は、神社の森として地域住民の信仰の対象となり、伐採をまぬがれ、非常に自然度の高い原生林として残ることになった。代表的なものとして、七尾市中島町唐島のタブ林、珠洲市須須神社のスダジイ林などがあげられる。このような社叢林は、県や市の天然記念物に指定され、保護されていることが多い。

 

 また、社叢林は、それ自体が、自然度(生物多様性)が高く、多くの動植物の生息地や渡り鳥の拠点となるなど、貴重な環境であるが、周辺に、水田や畑地、ため池、アカマツやコナラの二次林といった様々な土地利用があることにより、より多くの生きものが暮らせる環境が作りだされ、生物多様性を支えてきたと評価できる

 

A祭りの料理

 奥能登の秋祭りでは、親戚や知人を招待し、祭りのために特別に用意された郷土料理「マツリゴッツォ」と輪島塗の朱塗りの御膳でもてなす。近年は、簡素化が進み、仕出し料理を利用する家庭が多くなっているものの、この風習は「ヨバレ」と呼ばれ、今も続いている。祭りの料理は、その土地の豊かな生物多様性に支えられており、地域ごとに特色がある。

 

 珠洲市では、昆布巻き、春に採っておいたぜんまい、わらびの漬けもの、祭り時期が旬のタコ、カマス、アブラメが出される。かつては、マツタケの初物が出たが、今はマツタケが採れなくなった。能登町柳田では、ヒネ鮨(塩鯖、小アジ、アユ、ウグイなどを塩漬けした後、酢に漬け、ご飯と交互に積み重ねて重石をかけたもの)を出すのが特徴であった 。能登町の山間地の小間生(おもう)地区のサクラウグイの鮨や、五十里(イカリ)地区の鮎の鮨もよく知られている。

 

B祭りの道具


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 祭りの道具を支えるのも、地域の山林の豊富な樹種である。キリコや枠旗の柱には、能登の風土に適した樹種であるアテが使われている。また、道具づくりは、地元の大工や祭りを取り仕切る青壮年団員が、自ら、山で適切な材を探すところから始まる。

 

 平成22(2010)年、輪島市門前町の黒島南町曳山保存会の会長である湊良作氏に行った聞き取りによると、天領祭りの曳山には、車輪に、裏山のケヤキを利用していたが、近年では、車輪にできるようなケヤキの大径木がなくなってしまったので、太鼓の材料にもなっている外材のブビンガを使うようになったほか、舵棒には、かつては、使わなくなった千石船のスギの帆桁を利用していたが、現在では、カナアテを使っているとのことである。

 

5)里山里海との関わり

 祭礼や神事の場所は、主として、神社とそれを取り囲む鎮守の森である。これらは、集落と里山や田んぼの境など、集落のはずれにあることが多いほか、沿岸の地域では、集落に近い海辺に位置することも多くみられる。また、神輿やキリコが、祭礼の時に渡る場所(お旅所、お仮屋)は、海辺や川岸、池のほとりや原野が多い。

 

 さらに、海辺の場合は、かつて、そこに神が漂着したと伝えられる場所が多い。このような祭礼で利用される場所は、神聖な場所として、神社や集落によって厳しく管理され、普段は立ち入り禁止になっているなど、日常的に利用されない場所が多い。

 

説明: P1040206 

写真 櫟原北代比古神社(いちはらきたしろひこじんじゃ)の
鎮守の森と秋祭り(輪島市深見町)


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