今回ご紹介する石原 寛之さんは、平成30年(2018)春に研究科を卒業し、九谷光仙窯にロクロ師として就職しました。

進路として絵付け師を目指して研修していく過程で、形の重要性に気づいた事を機に、進路変更してロクロの腕を磨く就職先を探したそうです。

九谷光仙窯は明治3年(1870)創業。金沢市内でロクロによる成形から上絵付まで一貫した手仕事で制作されている窯元で、現在は五代目の利岡 光一郎氏が卒業生を成形・絵付け共に職人として雇用してくださっています。


今回は、ロクロ師として就職した石原さんと、社長の利岡さんにお話を伺いました。


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この取材では、研修所の卒業生が、何を学びどのように考えて就職しているのかを取材し、研修生やモノづくりを志そうとしている方に向けて、様々なメッセージが伝わる事を目的としています。







-------難しい形の花器が並んでいますね。ずいぶんロクロの腕を磨かれたのですね。社長さんから見て石原さんの成長はいかがですか。


利岡さん:今では私が言わなくても細かい所にも気づいてくれるし、一手に成形をしてくれています。ロクロの出来る人を求人した時に面接に来てくれて、やる気があると思ったので採用させてもらいました。期待通り頑張ってくれていて本当に助かっています。



経験を積んで、初めて気づく事が多くありました

 

 

石原さん:就職して2~3年目は商品にはならない素地を作っていたと思います。社長からは言われませんけど自分で分かります。
作業サイクルは1週間単位で考えているのですが、ロクロの水挽きで1週間、その後に高台などの削りで1週間。大体2週間で400個作る感じです。段々と挽けるようになってからは、成長の過程としての問題なのですが、挽き始めの頃と最後とでは形が違ってしまうことがあって、これも商品としてはダメですよね。
3年目を過ぎてからは客注(オーダーメイド商品)の仕事もまわしてもらえるようになって、やりがいも増えました。


-------なるほど、段階を追って成長する中で、壁にもぶつかる感じですね。


石原さん:先輩の職人さんに色々質問しても「適当や」って。最初、真に受けていたのですが、それは「適切に当然」という事だったのですよね。同じものを作る時はミリ単位で形の印象って変わります。全体のバランスも狂うし。自分で元の形を変えちゃいけないって思うし、慣れてくると手に馴染んでくるというか自然と形が取れてくる。





手で描く、手で作るという技術を、どのように継承していくのか

 

 

利岡さん:でもね、私はあるレベルからは見本が絶対的なものでもないと考えています。その形が見本である意味を考えるべきだと思います。見本通りを意識しすぎるより、守破離(※)ですよ。自分に寄せていくってことも時には必要な事だと思いますよ。

※芸道における師弟関係のあり方の一つで、修業における課程を示したもの。守(教えを守る事)、破(自分で模索し既存の型を破る事)、離(離れて自在になれる事)。




(左から、利岡さん、石原さん)




-------なるほど。継承するとは、そのような部分もあるのでしょうね。
それでは現在の石原さんが、後輩の研修生に「やっておけば良かったな」と思う事をアドバイスして頂けますか。


石原さん:研修所を卒業すると、制作をする設備が無くなる。想像はしていましたが、設備の大切さを実感しました。研修生の頃は、研修所でしかできないことは研修所でやって、家で出来る事は持ち帰ってやっていました。好きな事を好きなだけできる時間があるので、存分に今を楽しんでください。

 

-------時間は有効に、どのように使うかですね。最後に石原さんの今後の目標を教えてください。


石原さん:本科1年生の時に制作した「古九谷写し」の作品を父親に見せた時、「芸術は分からない。売れるものを持ってこい。」とだけ言われました。父の仕事は陶芸ではありませんが職人でした。それからの目標は、同じ職人として「売れるものを父に見せる事」と考えて頑張っています。

 




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守破離を伝えて下さった利岡さん、職人としてご自身の指針を示そうとした石原さんのお父様、それぞれが職人としての石原さんを大切に思っているようでした。職人といってもそれぞれの考え方があって、石原さんの職人スタイルが出来上がろうとしていると感じました。

 


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