兼六園の歴史

兼六園がたどった、
長く深い歴史

築庭以前

様々な施設が建てられた、加賀藩ゆかりの土地

天正11年(1583)に加賀藩初代藩主・前田利家(まえだとしいえ)が金沢城に入って間もなく、小立野台地につづく平坦な土地に、利家の菩提寺「宝円寺(ほうえんじ)」と祈祷所「波着寺(はちゃくじ)」を建立しました。約30年後の元和6年(1620)、この二つの寺は、7人の老臣の屋敷にするため移転させました。

慶長6年(1601)、のちに2代将軍となった徳川秀忠(とくがわひでただ)の娘・珠姫 (たまひめ)が輿入れした際、江戸から付いてきた300人のお供のために、長屋が設けられ、その場所は江戸町と呼ばれました。江戸町が置かれた場所は、現在の百間堀に面した茶店が立ち並ぶ場所です。珠姫が没したあと、住人たちは江戸に帰り、長屋はまもなく取り壊されます。その跡地には、万治2年(1659)、建築や営繕を担当する役所・ 作事所が移築されました。

堀を挟んで右手に見える林が兼六園発祥の地。[加州金沢城図](金沢市立玉川図書館所蔵)
かつて江戸町があった石川門前。

築庭以後

歴代藩主が雅な遊びを楽しんだ『蓮池庭』。

兼六園の築庭は、城に面する傾斜地の部分からはじまりました。延宝四年(1676)、5代藩主・綱紀(つなのり)が、作事所を再び城内へ戻して自己の別荘を建て、その周りを庭園化したのが作庭の始期だと言われています。
一般的には「蓮池庭(れんちてい)」と呼ばれていますが、築庭された頃の呼称は「蓮池の上御露地(はすいけのうえおろじ)」と呼ばれ、来藩した客人や重臣たちの接待、あるいは観楓などの宴を楽しむ清遊の場として、大いに活用されました。
歴代藩主や老臣に深く愛された蓮池庭ですが、宝暦九年(1759)の大火で、一部が焼失し、その後、11代藩主・治脩(はるなが)によって、安永3年(1774)に翠滝と夕顔亭、同5年には内橋亭を造営されました。

藩主の意向によって変遷してきた『千歳台(ちとせだい)』

蓮池庭上部にある平坦な地を「千歳台」と呼びます。藩主によってその使い方は様々で、千歳台はめまぐるしい変遷を遂げました。
藩政時代も半ばを過ぎた寛政四年(1792)、治脩は藩校「明倫堂(めいりんどう)」と「経武館(けいぶかん)」を創建します。治脩の後を継ぎ12代藩主となった斉広(なりなが)は、先代が開校した藩校を移転させ、文政五年(1822)、その跡地に自己の隠居所「竹沢御殿」を造営。同年、「兼六園」と命名されました。
斉広の没後、建坪4000坪、部屋数200を超える豪壮な御殿、竹沢御殿は、嫡子で13代 藩主・斉泰(なりやす)によって取り壊されました。斉泰は霞ヶ池を広げたり、姿の良い木を植えるなどして、庭を拡張・整備し、万延元年(1860)には、蓮池庭との間にあった門と塀を取りこわして、一大庭園につくりあげました。さらに文久3年(1863)には、母真龍院の隠居所として巽御殿(たつみごてん、現在の成巽閣)が造営され、ほぼ現在の庭の形になりました。

竹沢御殿が取り壊され、霞ヶ池の一回目の拡張が行われた頃のものと見られる。
[竹沢御殿・兼六園并御鎮守古絵図](金沢市立玉川図書館所蔵)

明治時代

藩主の庭から、広く市民の庭へ

明治7年(1874)、兼六園は全面的に市民へ開放され、それにあわせて多くの茶店が出店しました。
同13年(1880)には、西南戦争における戦死者を慰霊するため「明治紀念之標」が建立されました。
大正11年(1922)、国の名勝に指定された兼六園は、昭和60年(1985)には名勝から特別名勝へと格上げされ、庭園の国宝とも言える最高の格付けを得ました。
平成六年(1994)より構想の樹立に入った「長谷池周辺整備事業」が、同12年(2000)に竣工しました。新庭園のなかに明治の初め取り壊された「時雨亭」と「舟之御亭(ふなのおちん)」が再現されたほか、新たに二筋の流れを持つ庭園も整備され、これにより兼六園は一層の広がりをもつこととなりました。

時雨亭
舟之御亭