世界農業遺産「能登の里山里海」ライブラリー
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文化・祭礼

年中行事

1)概要及びGIAHS的価値について

 三方を海に囲まれた能登は、自然と神仏と生活が混然一体となった、原風景の濃縮地であるともいわれる。古来より、能登には、海に開かれた「海の道」を通して、さまざまな文化が押し寄せた。また、能登には、それほど高い山がなかったため、海の幸、山の幸、里の幸にほどよく恵まれた。能登では、このような海・山・里の実りに感謝するとともに、新たな実りを期待する行事が数多く生まれ、生業・生活に密着して、今日まで育まれてきた。

 

 能登の年中行事は、「あえのこと」などの農業(水田)に関するもの、山祭りなどの林業(山)に関するもの、起舟やアマメハギなどの漁業や海に関するものに大きく分けられ、季節のサイクル、農林漁業の節目にあわせて行われてきた。以下の図に示すように、能登には、多様で多彩な行事が、数多く現代に伝承され、今も、自然のサイクルに合わせ、生活に密着して営まれている。

 

 



 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2)背景(経緯〜現状)

@農業に関する年中行事

1.田の神様(あえのこと)

・あえのことの概要

 奥能登では、収穫後の12月5日、田から田の神を自宅に迎え、耕作前の2月9日、再び田へ送り出す「あえのこと」と呼ばれる伝統行事が行われている。「あえ」は、饗応(おもてなしをすること)、「こと」は、祭りを意味するとされる。

 

 「あえのこと」は、元来、各家々の行事であり、地域的共同性はなく、家の習慣、主として当主の信仰に委ねられてきた行事であった。また、浄土真宗よりも、禅宗や真言宗の家が厳格であるともいわれる。

 

 昭和51(1976)年、「奥能登のあえのこと」が、国の重要無形民俗文化財に指定され、脚光を浴びた。その後、平成21(2009)年には、ユネスコ(国連教育科学文化機関)が選定する「無形文化遺産」にも登録され、再び脚光を浴びている。

 

 能登町合鹿庵や珠洲市田中家などでは、近年、観光客向けにイベント化された「あえのこと」も行われている。また、輪島市三井町のように、地域が保存会を立ち上げ、地域活性化や観光資源として、「あえのこと」を活用する取組も始まっている。

 

・家ごとに異なる行事の内容

  12月5日は、「暮(冬)のあえのこと」または「田の神迎え」と呼ばれる。田の神を田から自宅にお連れし、風呂や食事でもてなし、その年の収穫を感謝する。田の神は、目が不自由とされているため、もてなす家の主人は、あたかもそこに田の神がいるかのように、声をかけて接待する。その後、冬期間、田の神は、神棚や床の間で休むとされる。

 

 2月9日は、「春のあえのこと」または「田の神送り」と呼ばれる。12月同様、再び、田の神を風呂や食事でもてなし、今年の豊作を祈願し、家の表戸まで送り出し、田に戻ってもらう。田の神は、田の守護神であるとともに、その家の神でもある。


  

写真  田の神を迎える(能登町合鹿庵)  田の神様をもてなす(能登町合鹿庵)

 

 以上が、「あえのこと」の基本的な流れであるが、それぞれの家によって、内容は大きく異なる。「あえのこと」は、田の神に奉仕する、家ごとの信仰によるものであり、明確な決まりはない。

 

 昭和51(1976)年に「奥能登のあえのこと保存会」が行った、珠洲市内の「あえのこと」分布調査によると、迎える田の神を独り神とするもの、夫婦2柱の神とするもの、夫婦神と客神の3柱とするもの、夫婦神と子神の3柱とするもの、夫婦神と随神の4柱とするものなどがあり、また、田の神を片目または全盲とするもののほか、明盲を論じないものもある。

 

 送り迎えも、裃の正装で田まで送り迎えをする、普段着で送り迎えをする、送り迎え自体をしないなどと異なり、冬期間中に休んでいただく場所も、神棚や座敷の床柱、種籾俵の中などと異なる。

 

 このように多様性を持って行われてきた「あえのこと」であるが、戦後になると、農業の機械化、ライフスタイルや価値観の変化に伴い、行事内容の簡略化・廃止が急速に進んだ。現在では、赤飯やおはぎ、お神酒を神棚に供えるだけ、あるいは風呂に入ってもらうだけなどの簡略した形で行っている家も多い。ただし、浄土真宗の家では、古くから、簡単な形で行う場合が多かったようである。

 

・昭和50(1975)年頃のあえのこと

a.珠洲市若山町 稗田家、高橋家
12月5日の午後、田の神を迎える「あえのこと」のため、シトギ餅をつくった。餅をつく音を聞いて来臨した夫婦神の田の神を、神棚の下に用意した神座(稗田家)、土間(ニワ、高橋家)で迎えた。以前は、苗代田まで正装で迎えに行ったが、最近は迎えにいくことはしなくなった。

 稗田家では、田の神に先に風呂に入ってもらい、その後、御膳をすすめた。食事時間は、2時間ほどで、家長のみが給仕をした。おさがりは、家族でいただいた。2月9日の田の神送りの「あえのこと」は、夕方遅くに始めた。神棚の下の神座に、種籾俵2俵をすえ、松とユズリハをたてた。食事の後、田の神は、縁側まで出るとされた。田の神を送るのは、2月11日の朝であり、家長が若松を捧げて、田の神を送り、苗代田の中央に松を挿し、鏡餅と串柿を供え、雪の上から三鍬打って、田打ち神事を行い、その年の豊穣を祈願した。

  高橋家では、神棚の下に、種籾俵2俵をたてて神座とし、まず御膳をすすめた。食事時間は約1時間で、その後、風呂をすすめた。湯あがりの後、再び神座に案内し、家族は、田の神のおさがりをいただく「直会」となった。2月9日の「あえのこと」は、家長が、山の仕事始めである「若木迎え」で刈ってきた祝い松を、種籾俵に挿し、鏡餅を供え、12月の「あえのこと」と同様に行った。田の神を送り出すのは、2月11日の朝、田打ち神事であった。神の依代(よりしろ)である祝い松を捧げ、苗代田の中央に松を挿し立て、小豆飯と新酒を注ぎ、その年の豊穣を祈願した。

b.珠洲市若山町 田中家
 田中家の「あえのこと」は、10月28日の刈り上げに始まった。稲刈りが終わった「鎌納め」が、同時に、田の神あげ(田の神迎え)であった。刈り上げを祝った稲束を、そのまま稲積みにして乾燥させ、11月5日頃、その中から種籾を選び、種籾俵に納め、俵を土蔵に納めた。

 12月5日は、神棚の下に、灯明や供物を準備し、土蔵から出した種籾俵を依代として、横並べに据え、神座を構えた。また、「おはな迎え」(榊)、「お箸迎え」(栗)のため、山に入り、枝を刈ってきた。料理は、家長の妻が担当し、魚や昆布など以外は、自家生産品を使用した。供膳は、午後早く始められ、正装をした家長が、御膳を神座の前にすすめ、挨拶をした。食事の後、入浴となり、風呂からあがった後、再び神座に案内し、茶の間の炉に、栗の生木を焚き、十分にくつろいでいただき、おやすみとなった。家長と家族は、台所でおさがりをいただいた。

 2月9日は、「タノカミサマ」(田の神送りともいう)を行った。神座に種籾俵を供え、2月8日の「若木迎え」で山から伐ってきた松「若松様」(勧請松・田打ち松)を、俵の間に飾り花として立てた。饗応は、12月と同様にすすめられ、食後、湯浴びを奉仕した。田の神は、2月11日の田打ち神事まで、松に勧請されて正座敷の床に飾られた。2月11日は、朝早くに、田の神の依代の松を捧げて、苗代田に出て、雪を除けて、土の上に松を立て、田の神を田に送った。三鍬打ち、田打ち初めの神事を行った。

 

・昭和30年代以前のあえのこと

a.輪島市町野町の農家
小倉(1965、1985)の調査に、昭和33(1958)年、輪島市町野町東地区のある農家で行われていた「あえのこと」の様子が記録されている。
 12月5日の朝、主人は山から栗の小枝を伐ってきて、箸を2膳分つくる。田の神は、夫婦二神とされるからである。奥座敷には、神座として、種籾俵を据え、前方に2本の二股大根と箸を並べる。ここに田の神を迎える。正午近く、主人は、苗代田に出て、稲の切株を3株起こして、水戸口をふさぎ、拍手をして、「お迎えにあがりんした」と唱え、田の神がいるがごとく案内をしながら帰宅する。田の神は、稲葉で左の目をつき、片目で不自由なことから、段差や戸口のしきりなどでは、注意の言葉をかける。座敷の神座に案内し、甘酒を2膳供え、その後、入浴となる。風呂場に案内し、湯加減をみてから、「ゆっくりと入ってくだんせ」と言葉をかける。その間、台所で正座をして待ち、頃合いを見て、座敷へ案内する。夕刻には、主人が御膳を2つ供え、品目を説明する。お膳の料理は、小豆飯、お平(ニンジン・ゴボウ・芋の子・豆腐・カブ)、大根の胡麻和え、豆腐の田楽、ハチメなどである。1時間ほど経った頃、御膳をさげ、家族でそのお下がりをいただき、食事となる。田の神は、2月9日の田の神送り(春のあえのこと)まで、屋内で年越しをするといわれる。春のあえのことも、12月と同様だが、田の神は、ニワ(土間)まで送るだけで、田まで送ることはしない。

 

b.輪島市大屋町小伊勢の農家で大正初期に行われていた暮のあえのこと
 12月4日の夕方より掃除をし、女衆は、田の神のご馳走の用意をした。夜中の12時になると、裃をつけた家の主人(ゴテ)は、大戸を開けに行った。大戸を開けると、お辞儀をして、一年の感謝と迎えの挨拶を述べて、田の神を囲炉裏の横座へ案内し、囲炉裏の火で暖まってもらった。次に、座敷の床の間にあらかじめ安置してある種籾俵のところへ案内した。おばばが、用意してあった御膳を、田の神の前へ運んで行き、主人がその後に続き、御膳の前に座って食事をすすめた。料理は、白米飯、お平(ダイコン・ゴボウ・ニンジン・豆腐)、塩鯖、酢の物などであった。御膳を下げた後、お下がりのご馳走は、家の者で分け合っていただいた。

 

c.能登町柳田字寺分の農家
 12月5日の夕方、主人(ゴテ)は、普段着のまま、自分の田へ田の神を迎えに行き、そこから家へ案内した。家へ迎え入れると、奥座敷の床の間に安置してある種籾俵へ案内して、ご馳走をすすめた。田の神は、片目の夫婦神といわれており、2人分の御膳を用意した。食事が終わったと思われる頃、御膳の前に2枚敷いてあるヘツトリを捧げ持って、風呂場へ案内し、湯加減をみてから、拍手を打ち、「お入りください」と声をかけた。入浴後は、再び、ヘツトリを捧げ持って、もとの奥座敷の種籾俵の前に戻り、「休んでください」と声をかけた。田の神へのお供物(ご馳走)のお下がりをいただくのは、主人と男衆だけであった。

 

d.能登町内浦町不動寺の農家
 正月9日(2月9日)の夕方から夜にかけて、「田の神様送り」を行った。午前中に「若木迎え」を行い、裏山から伐ってきた栗の若木で、田の神用の2尺の大箸を、2膳分用意しておいた。田の神のご馳走づくりは、妻の役割であった。主人は、やはり「若木迎え」で裏山から伐ってきた松を、「勧請松」と呼んで、床の間に安置した籾種俵の真中に突きさした。田の神にお供えするハチメ(メバル)は、子どもたちが浜へ行き買ってきた。夕方、風呂が沸くと、主人は、田の神が宿る座敷の床の間にある籾種俵の前に行き、「風呂がわきましたからお入りになってください」と声をかけ、手ごろな籾種俵を2つ両脇にかかえ、風呂場へ案内した。湯加減をみて、種籾俵を抱いて風呂に入れ、人の背中を流すような動作をした。その後、再び案内して、座敷の床の間へ戻り、ご馳走を出した。田の神は、夫婦神とされるため、御膳は2膳分用意された。料理は、本膳として、甘酒、赤飯、ハチメ、お平、それに、鏡餅、クリ、カキ、ミカン、二股大根であった。食事が終わったと思われる頃、御膳を下げ、家族一同で分け合っていただいた。

 

e.能登町柳田字柳田の農家
 春のあえのこと(2月9日)は、土蔵にしまってあった種俵を持ちだして、座敷の床の間へ安置し、暮のあえのこと(12月5日)と同様、ご馳走(ただし、二股大根のみ供えない)をお供えした後、風呂へ案内し、入っていただいた。入浴後、再び座敷の床の間へ案内し、休んでいただいた。家族の者が入浴をすませると、一同座敷へ集まり、主人が、五穀豊穣の祈願を述べ、行事を終わった。この家の田の神は、あらかじめ掃除し、口をあけてあるカマドへ留まり、一か月後の3月9日に、初めて田へ出て行くとされた。

 

f.能登町字神野の農家
 田の神は、蔵や納戸の隅に宿るとされており、2月9日に、田の神送りの「あえのこと」をするが、すぐに田へ出て行くのではなく、3月9日まで、ニワ(土間)の隅に留まった後、田へ出ていくとされた。

 

g.輪島市南志見字里の農家
 2月9日には、田の神は、ニワ(土間)まで出て、そろりそろりと田に近づくとされた。

 

・口能登

 口能登では、「あえのこと」と呼ばれる行事はなかったが、春は、山から降りて田の神になり、暮は、田から上って山の神になるという伝承があった。12月8日は、「田の神あがり」、3月8日は、「田の神くだり」あるいは「春の田の神様」と呼び、その日は、農作業を休んで、赤飯やおはぎを作って祝った。

 

・昭和30年代以前の口能登の田の神様

a.志賀町堀松北吉田
 田の神は、12月9日、田から山へあがり、翌年3月9日、再び山から田んぼへ降りてくると信じられていた。

 

b.中能登町鳥屋町字黒氏
 12月8日は、田の神が田から山へあがる日とされ、「田の神あがり」の日と呼ばれた。農家は農作業を休み、おはぎをつくった。田の神は、翌年3月8日に山から田へ降りるといわれた。

 

c.七尾市田鶴浜町の農家
 田の神を「タンカブサマ」と呼んだ。12月8日は、「秋のタンカブサマ」といい、百姓は、早朝、田の水戸口(ミトグチ)をとめた。各農家では団子をつくり、仕事を休んだ。3月8日の「春のタンカブサマ」は、12月8日にとめた水戸口を開き始める、「田んぼの水落し」の日といい、やはり仕事を休んだ。

 

d.七尾市徳田の農家
 かつては、田の神を「タンカブサマ」といい、3月8日に天から降り、暮の12月8日に天に昇るといった。この日は赤飯で祝ったが、1960年代にはすでに行われなくなっていた。

 

e.七尾市能登島町閨
 1900年以前は、3月8日を「田の神クダリ」の日といい、農家は赤飯を蒸して祝った。12月8日は、「田の神アガリ」の日といい、田の神が、田から山へあがり、休養するといわれた。この日、農家は赤飯をつくり、来年の豊作を祝ったという。

 

f.鹿島町(現:中能登町)
 越路地区では、3月8日は、田の神が田に下りる日といった。ご飯に小豆を混ぜて食べたり(西、大正時代以前)、おはぎをつくったり(坪川、久乃木)する家があった。サツキ正月(2月15日)には、田の神がイブリを持って、田へ下りてくると伝えるところ(武部)もあった。また、鍛冶屋、石屋のフイゴ祭りの日であるという地区(久江や小田中)や、田の神の伝えがない(鹿島町南部)地区などもあった。かつては、3月初め頃から、21日のお出で祭りの前までに、「鍬オロシ」と呼ばれる田打ち初めの行事があった。在江では、3月2日の小祭りを鍬オロシ祭りといい、田の神が来る日と伝えられていた。小竹では、鍬オロシの日は、田の神がやってくる日と伝えられ、農作業に備えて、鍬の柄が抜けないように水に漬けた。
 越路地区や滝尾地区では、12月8日は、田の神様上がりの日といった。在江では、12月2日の宮祭りの日に、田の神が帰るといい、久乃木では、11月8日には、田の神様の日としてぼた餅をつくった。その他、カイモチ(おはぎ)やブリの頭を食べて祝った地区(坪川)、上等の米粉でつくった小豆団子で祝った地区(武部)、小豆ご飯をつくった地区(蟻ヶ原)などもあった。

 井田では、田の神がイブリや鍬を担いであがってきて、大根畑に一晩泊まり、その夜のうちに大根が太るといわれた。そのため、大根の収穫は、その日が過ぎてから行ったという。

 

・田の神の関連行事「若木迎え」「田打ち」

 奥能登ではかつて、田の神に関連して、2月8日または9日の朝に、「若木迎え」、2月11日に、「田打ち」の行事が行われていたが、現在ではほとんど行われていない。大正生まれの人は、2月11日を「田打ち」と呼ぶことを知っていたり、親がするのを見ていたというが、その後の世代にはほとんど伝わっていない。

 

 能登町武連では、餅を一つ食べると、田を一枚起こすといい、2月11日に、各家で「田打ち雑煮」を食べるならわしがあったが、現在は行われていない。

 

 珠洲市若山町の稗田家、高橋家では、前述のとおり、2月9日の田の神送りに関連して、「若木迎え」や「田打ち神事」が、昭和50年くらいまで行われていた。珠洲市若山町上黒丸、清水では、2月11日の「田打ち」は、農家のキシュウイワイ(正月)とされ、苗代田の雪の上から、鍬で数回打った後、ハナモチ、ユズリハを立てた。鍬を打って、稲株を裏返すこともあったが、これも現在は行われていない。

 

 鹿島町(現:中能登町)でも、2月11日はキッシュウといわれ、2月15日のサツキ正月につながる一連の農耕予祝日としての性格をもつ。また、この日をゴキッショウと呼び、小豆雑煮をつくって祝ったと伝える地区も多かった。

 

・昭和30年以前の「若木迎え」「田打ち」

 小倉学による昭和33(1958)年の輪島市町野町東地区の農家の行事調査によると、「田打ち」では、「あえのこと」の2日後の2月11日に、神棚の下にムシロを敷き、その上に鍬を飾って、鏡餅を供え、小豆餅をこしらえて、家内一同が祝ったという。「田植」は、2月15日に、「田打ち」と同じく、茶の間に鍬を飾って、鏡餅を供え、神棚の松飾りをおろし、囲炉裏で焚き、小豆餅を食べて、今年の豊作を祈ったという。

 

 また、四柳によると、能登では、昔から、正月に初めて山へ入る「初山入り」を「若木迎え」と称する。家ごとに異なり、日は一定していないが、春のあえのこと(田の神送り)の行われる9日の朝に行う家が多かった。穴水町明千寺のある家では、正月9日の朝に、家の主人が、2個の丸餅を焼いて、裏山へ行き、栗の木の根元に餅と鎌を供え、豊作を祈願する。その後、栗の木や朴の木などの「若木」を伐って持ち帰り、正月11日の「お田打(田打ちはじめ)」の朝、雑煮餅を煮る際の薪にした。「お田打」では、蔵の中に納めてある種籾俵に突きたててあった、田の神様と称する松を抜き、鍬と一緒に苗代田の水口に持って行き、立て、豊作を祈願して家に戻った。

 

 内浦町(現:能登町)不動寺の家では、2月9日の午前中に、家の主人が、焼いたヨモギ餅とナタを持って裏山へ行き、松の木に供え、今年の平安無事を祈った。その後、松や榊、栗などの若木を伐って持ち帰り、11日の「田打ちはじめ」の雑煮餅を煮る際の燃料に用いた。松の木に供えたヨモギ餅は、「クスリモチ」と称され、山での仕事中、急に腹痛を起こした時に食べるためにとっておいたという。

 

2.田植え前後の行事

・山行き

 輪島市では、旧暦4月8日(現在の5月8日)に、高洲山(標高567m)の山開き(嶽開き、嶽祭りなどとも呼ばれる)が行われる。高洲山は、古くから外海航路の目じるしともなっていたほか、山頂付近には、薬師堂が祀られ、信仰の山として知られる。山開きは、江戸時代に始まり、輪島塗の発展・繁栄とともに、明治中頃から盛んになったといわれ、職人が「嶽山登山」を行い、直会の酒宴を楽しむ慣習があった。

 

 かつては、奥能登でも、旧暦4月8日(現在の5月8日頃)は、農耕特別の日として、山に登り、山の花を折ってくる習慣があった。内浦町(現:能登町)松波周辺では、8日は、田の神の「お田下り」の日とされ、絶対に田へは入ってならないとされた。この時、田の神は、山に咲く「白コボシの花」に乗って待っているとされ、百姓は、山へ入り、白コボシの花を折ってきて、家の屋根や田の水戸口(ミトクチ)に挿していた。

 

・サツキ(田植え)

 七尾市の漁村地域では、まだ手作業で農作業を行っていた頃、5月14日と15日の青柏祭までに、田の畦を塗り、ヤマミ(デカ山見学)が終わった後、田植えをした。田植えは、サツキといい、苗の生育状況をみて、各家で日取りを決めた。手植え作業であったため、多くの人手を要し、隣近所や親しい家など、5軒から6軒ごとに「エー」(結い、労働交換)をして田植えをした。

 

 サツキの日には、小豆粥をつくって振る舞ったり、白餅やヨモギを入れた草餅をついたり、サツキ団子をつくって祝う家もあった。田植え後の夕食では、酒やオザシ(尾頭つきの焼き魚)で、「エー」の仲間をもてなした。6月初旬頃、田植えがひと段落すると、集落で日を決めて(6月4日頃)に「田休み」とし、家で粽(ちまき)などをつくり、家族や親戚と食べ、労をねぎらった。


・昭和30年代以前の「田休み」

 田植え機が普及する昭和30(1955)年頃までは、田植えは、「エー」(村の何軒かがお互いに労力を出し合い行う共同作業)で行われた。田植えが終わる6月20日頃には、村で一斉に、あるいは各家で、「田休み」や「野休み」といって、笹餅やおはぎ、朴葉飯(ほおばめし)などをつくり、祝う地域も多くあった。

 

 珠洲市では、田植えが無事に終わり、田の神が田から上がることを「サノボリ」と呼んだ。サノボリは、家ごとに行うもの、集落全体で行うもの、集落と家とで行うものがある。かつては、親方(おやっさま)・親作と小作の支配を単位として行われたが、農地解放により、小作の独立が進むと、結仲間など、労働の仲間ごとの家、サノボリごとの行事が発生し、集落一斉に「農休み(野休み)」も行われるようになった。珠洲市高屋では、黄粉(きなこ)で、大谷では「田植あがり」の朴葉飯で、宝立では田植餅で祝った。

 

 能登町柳田の重年、野田、十郎原、国光などでは、田植え後の休日を、「田植え仕舞い」といい、家によって田の神に対する様々な所作があったというが、現在では行われていない。また、地区で一斉に行うムラサノボリ地区、家ごとに行うイエサノボリ地区があった。

 

 鹿西町(現:中能登町)でも、昭和35(1960)年頃までは、田植えが終わり、田仕事がひと段落した6月20日前後に、地区そろって、骨休みの「田休み」の日がとられた。田休みには、各家で笹餅をつくり、娘の嫁ぎ先へも配り、嫁も里帰りした。近年では、6月初旬に行われるようになり、嫁の里帰りの風習は、戦後なくなった。田休みに、嫁が実家へ帰る風習は、鹿島町(現:中能登町)でもみられた。

 

・現在の「田休み」

 中能登地域では、現在でも「田休み」の名残がみられる。

 

 中能登町鳥屋町末坂では、6月19日に、笹餅をつくり、田仕事を休む。同地区の白山神社では、豊作祈願の祝詞が奏上される。

 

 七尾市田鶴浜町伊久留では、かつて、6月17日には、集落をあげて、神明社の盛大な祭り(神明社祭り)を行ったが、現在は、「田休み」のみ行われる。

 

 七尾市中島町町屋の穀造祭(虚空蔵祭)では、田植えをひととおり終えた日曜日に、虫ヶ峰頂上にて、五穀豊穣の祈願をする。その後、直会を開き、朴葉餅を食べる。

 

 七尾市中島町西谷内の国造山では、5月上旬に、田植えを見届けた田の神を、村人がこぞって山に登って送る、田植え後のサノボリ行事(コクゾウ皐月上がりともいう)が行われる。

 

・珠洲市若山町のニワ祭り

 珠洲市若山町、清水町周辺では、かつて、田植えが無事終わると、田植えに参加した人たちを家に集めて慰労し、豊作を祈る神事を行った後、広い土間(ニワ)で、「ちょんがり節」を楽しんだ。昭和62(1987)年には、30数年ぶりに再現され、珠洲市のイベント「若山庭まつり」として続けられている。

 

 秋から冬にかけて、天候が悪く、雪深い奥能登の農家では、かつては、民家のニワ(土間)が、稲の脱穀やわら仕事、餅・味噌づくりなどの重要な生産・生活の舞台であった。そのため、珠洲市若山町一帯では、正月には、庭ノ神に餅をすえ、春にはニワマツリをして、豊穣を祈った。清水町のニワマツリでは、宿元のニワの中央部に、庭ノ神の依代と思われる餅つき臼と味噌つき臼を、2つ重ねて、その周囲で踊ったという。

 

3.虫送り

 農薬が開発される前の昭和20年代頃までは、年によって、イナゴやウンカ(ヨコバイ)、ドロ虫(稲泥葉虫)により、甚大な農業被害を受けることがたびたびあった。能登では、こうした害虫の発生する6月中旬から7月初旬にかけて、虫送り(除蝗祭)が、地区ごとに日取りを決めて営まれてきた。虫送りでは、害虫を、ムラからムラ、川の下流、さらに海の彼方へと順々に送り出していく。虫送りに使った松明は、川に流したり、大松明にして燃やす。ムラ意識が強く出る行事であり、七尾市能登島町のように、三地区が合同で行うところ、七尾市中島町西岸地区のように、隣り合った村が合同で行うところなどがある。

 

 以下に、主に、石川県が平成8(1996)年度に実施した石川県の祭り・行事の悉皆調査を基に、現在行われている虫送り行事を記す。農薬の使用により、害虫被害が減った現在でも、中能登地区を中心に、多くの集落で、虫送りが行われている。

 

・富来町(現:志賀町)地頭、高田地区では、7月下旬に、土用三バンの休日を利用して、建部神社境内で松明をつくる。鉦・太鼓を打ち鳴らし、「しんむしいけ、どろむしいけ、うんかむしいけ」といいながら、地区境まで一巡する。

 

・鹿島町(現:中能登町)久乃木では、7月10日、除蝗祭という行事名で虫送りが行われる。二宮では、6月25日、御幣を先頭に、大太鼓に合わせながら、子どもたちが掛け声をあげ、田の畦をまわり、御幣をたてていく。

 

・鹿西町(現:中能登町)上後山地区では、6月20日、白山神社で神事を行った後、日暮れになると、青竹を数本束ね、先端に杉葉をつけた松明を持ち寄り、神社を出発し、太鼓を打ち鳴らし、「ガメ虫送れ」などと歌いながら田んぼを回る。

 

・七尾市南大呑地区の山崎阿良加志比古神社では、6月14日、徐蝗祭が営まれ、氏子の地区の町会長が代表して参詣する。お祓いを受けた「虫送りのお礼」(徐蝗祭神符)は、地区の全戸に配られ、各家では、青竹の先端に札を結わえ付け、田に立てる。昭和30年代頃までは、集落の少年団が、囃子を掛けながら、太鼓を叩いて、地区内の田を回ったというが、近年はみられない。

 

・七尾市中島町上町では、6月下旬の土曜日の夜に集合し、鉦・太鼓が先導しながら、松明を持ち、田を回る。子どもは、棒に吊り下げた金属缶に油を浸した布を入れ、それに火をつける。決められた田に、熊甲社からいただいた御幣を立てる。

 

・七尾市中島町北免田では、6月27日以降の土曜日に、惣社である藤津比古神社から、御幣が各集落に下付される。熊木川支流の免田川上流から、順に集落内を巡り、村境の熊木川畔まで、鉦・太鼓を鳴らしながら回る。

 

・七尾市中島町外原では、6月の第3土曜日の夜に、松明を持って宮へ集合し、火をつけて太鼓・鉦を鳴らし、決められた道順を回る。途中、決まった田に御幣を立て、橋の上で神事を行って、松明を川へ流す。

 

・七尾市中島町笠師では、6月19日に、笠師川上流に松明を持って集合し、太鼓・鉦を鳴らしながら、はやし唄を歌い、決められた順路で下流へ向かう。途中、田に御幣を立てる。

 

・七尾市中島町西岸地区の小牧と外(そで)では、6月の第2日曜日に、虫送りの松明行列が、鉦・太鼓を打ち鳴らし、「どろ虫ゃ、でていけ」「うんか虫も」と掛け声をかけ、田の虫を追い払いながら、それぞれの地区の田を一巡し、両区の村境で合流し、子どもたちが、互いに自分の村の松明の数や大きさを自慢しあい、最後に松明を焼く。

 

・七尾市能登島では、6月27日に、島内20区長が、能登島向田の向田夜比盗_社に集まり、お札をもらう。宮座は、旧村の石高に応じた順であるが、総代としてお札をもらうのは、ドロ虫が最初に大陸から渡って来て、最初に虫送りを行ったと伝えられる佐波区長である。能登島20区の一つ、野崎では、独特の虫送りがみられ、7月上旬、男の子が、神社境内に集まり、約10メートルの竹10本と藁を組み合わせ、大きな虫送り舟をつくり、鉦や太鼓を叩きはやし、唄を歌いながら、神社から繰り出し、舟に火をつけて、浜から海へ流す。久木・田尻・通の3地区では、6月下旬に合同で行う。太鼓を鳴らし、「ウンカ虫ゃとんでけ、ドロ虫ゃでてけ」とはやしながら、要所を回る。

 

・穴水町宇留地では、6月中旬から下旬に、地区内で「ウンカ祭り」を行う。宇留地神社から配布された短冊形のノサ(幣)を、茅の棒につけ、田の隅に立てる。夕刻、若衆が、松明を持ち寄り、神社のかがり火で火をつけ、流旗と御幣を先頭に、神社を出発し、松明を振り、はやしながら練り歩く。元禄時代に、生類憐みの令が出され、山犬(オオカミ)を稲虫とともに、太鼓で追い払ったのが起源と伝えられる。

 

・輪島市上大沢では、8月上旬の日曜日、神社での神事の後、松明に火を灯し、田んぼを回り、海岸で藁船3隻とともに海へ流す。

 

・珠洲市若山町経念では、6月17日、古麻志比古神社で火打ちをした神火を、松明に移し、地区内をはやしながら回る。田の要所に、虫除け札をつけた竹が立ててあり、神主はその前でお祓いをしながら回る。一周した後、橋から松明を投げ込む。

 

4.稲刈りの関連行事

 四柳によると、昭和35(1960)年当時は、稲刈りが終わると、「刈り上げ祝」といい、おはぎをつくって祝ったり、刈り上げた稲束を神棚の下や床の間に安置し、ご飯やカイモチ(おはぎやぼた餅のこと)を供えて拝んだりしたが、現在ではほとんど行われていない。また、珠洲市でも、昭和50(1975)年頃には、大谷、若山町、三崎町では、10月28日あるいは実際に稲刈りの終わった日に、「刈り上げのかいもち」などをつくり、田の神に供えて祝った。

 

A林業・山に関する年中行事

1.山祭り

 能登では、3月9日と12月9日に、炭焼きや製材、木挽き、大工等の職人により、山の神を祀る「山祭り」が行われていたが、現在では、山仕事自体が衰退し、見られなくなった。

 

・奥能登の「山祭り」

 奥能登では、3月9日と12月9日を「山祭り」と称した。前者は、山の神が木の種をまく日であり、山へ入ると大けがをするといわれ、この日は絶対に山へ入らなかった。後者もやはり、山の神が木の種を拾う日であり、山に入ってはならないとされ、その年の木材・薪の収穫と作業の無事を感謝し、「山祭り」をした。この日は、各家で、夕刻、床の間に山の神を祀り、山仕事の道具を並べ、神棚に赤飯・魚を付けた御膳を供え、関係者が集まり、酒盛りが行われた。

 

 珠洲市若山町一帯では、2月9日は、山の神が種をまく日とされ、山へ入り、鏡餅を栗の木の根元に供えたが、現在では行われていない。本来は、田打ちの日(2月11日)に行うもので、この日は、山仕事を休み、仕事をしてけがをしたら一生治らないといわれた。
能登町柳田村の各農家では、3月9日、「ツチキリ」といって、赤飯、甘酒、ツチキリ団子を供えて、座敷などで田打ちの所作を行った。この日に、田の神を田に送る家もあるが、山の神が木の種播きをする日でもあるため、山には入らなかった。

 

・口能登の「山祭り」

 口能登では、前述のとおり、春、山から降りて田の神になり、暮は、田から上がって山の神になると信じられており、3月9日は「春の山祭り」、12月9日は「冬の山祭り」として、山仕事の関係者は、山の神を、農業の従事者は、田の神をお祝いした。

 

 鹿島町(現:中能登町)では、3月9日は、山の神が下りる日といい、特に、山仕事に従事する人々が祝った。二宮では、田の神と山の神が交差する日であるといわれ、おはぎをつくって仏壇に供え、普段よりご馳走を増やし、祝った。炭焼きの従事者は、炭窯にもおはぎを供えた。また、山の神が、木の側に来て遊んでいる(石動山)とか、木の種をまいている(水白)ともいい、この日に木を切るとけがをする、あるいは、トモノ(木を切る道具)が危ない、けがをするから山へ入ってはいけないと厳しく戒められてきた。

 

 その後、昭和の終わりには、製材関係者の間では、午前中に山仕事、午後に宴を催すことが増えた。12月9日は、冬の山祭りの日で、蟻ヶ原では、山の神が木の実を集めに回るので、ぶつかったら大変だといわれ、鋸など山仕事の道具を飾った。石動山では、昭和35(1960)年頃までは、特別に餅をつき、ナタ、鋸、斧を油で拭き、鏡餅を供え、皆で集まり、鰤と酒で祝った。東馬場では、土建業の関係者が鰤で祝い、武部でも同様に祝った。

 

 鹿西町(現:中能登町)では、3月9日の山祭りの日は、山の神が休まれる日(能登部上)、山仕事をしない日(後ろ山)とされたほか、12月に里に下っていた山の神が、山に帰る日(能登部下)などともいい伝えられている。「山祭り」には、大工、木挽、炭焼き、製材、建築など、山にかかわる業者は、すべて仕事を休み、山の神に感謝し、宴を催すことが現在も行われている。

 

 また、この日に山仕事に出かけるとけがをする、木を切る道具を使うと危ないなどともいい伝えられる。12月9日は、山の神が木の実を拾っているから山に入らないように、もし禁を犯すと大けがをする、との言い伝えがあり、関係者は仕事を休み、祝うことが現在も続いている。12月の「山祭り」は、春の山祭りよりも盛大に祝われる。

 

 七尾市田鶴浜町は建具製造の町であり、12月9日には、建具関係の人々の講が行われる。宿には長提灯を吊るし、床飾りをし、夕刻、関係者が集まった後、読経、説教があり、鰤の刺身などで酒宴を開く。

 

B漁業・海に関する年中行事 

1.起舟

 能登の海沿いの集落、特に漁業従事者の多い地区で多く見られる、漁民の仕事始めの行事が、正月11日(現在は2月11日に行われることが多い)に行われる「起舟」である。キシュウ・キッシュウ・キッショウなどと呼ばれるほか、船起こし祭りともいう。舟に大漁旗、鏡餅、榊、松などを飾って、豊漁を祈り、船主・網元宅で酒宴を催すことが多い。

 

・輪島市の起舟

 四柳や朝日新聞社編「奥能登」によると、輪島市輪島崎町では、正月11日に、起舟とともに「船霊祭」を行ってきた。午前3時頃、網元や舟夫(カコ)が、裃姿で提灯をもって船へ向かい、フナダマが宿ると信じてられているカジトコへ、持参した鏡餅、御神酒、ゴサイ(魚)を供える。次いで、親方が祭主となり、カジトコへ御神酒を少し注ぎ、その年の大漁と航海の安全を祈る。現在は、「起舟祭」と称し、1月11日早朝に、父親の漁師と跡取りが、輪島市輪島崎町の輪島前神社に参拝し、白装束の「かぶせぬさ」と呼ばれるお祓いを受け、御神酒と御供米を口にし、港に向かう。その後、漁船に手を合わせ、豊漁と海の安全を祈願する。

 

 輪島市名舟、町野町大川、曽々木でも、1月11日(2月11日)、漁業従事者の家で、船の所有者が、船に御神酒と榊を飾り、大漁旗をたてる。同様に、自宅の神棚にも飾り、大漁と海上の安全を祈願する。

 

・穴水町〜珠洲市の起舟

 穴水町から珠洲市にかけての内浦の各港では、起舟の日に、大漁旗や吹き流しで船体を飾り、祝い、一年間の豊漁と航海の安全を祈る。

 

 能登町鵜川、七見では、2月11日、船に御神酒と鏡餅を飾り、大漁旗や日章旗をたてる。その後、各家でも、恵比須様に酒と鏡餅を供え、大漁旗を飾り、祝宴を行う。能登町真脇、姫では、船に、鏡餅・オハナ(サカキ・松・ソダ)を供え、船のジョウノミ(水を出す栓)を家の神棚に供え、船主の家で祝宴を行う。能登町宇出津では、弁天の祭りとして、早朝、大漁旗、サカキ・松を立てる。船元の家の床の間に、恵比須画像を掛け、大漁祈願をし、酒宴を催す。能登町の大敷き網(定置網)の各組合でも、関係者が集まり、にぎやかに酒盛りを開く。起舟は、漁村の旧正月行事であり、藩政時代から続くとされ、冬の間、浜に引き上げてあった漁船を、2月11日に起こし、海に浮かべ、その年の大漁を祈ったことに始まるという。

 

 珠洲市蛸島、飯田、三崎町小泊、高屋、清水などでは、2月11日、漁船に大漁旗をたて、御神酒と魚を供える。その後、底曳き船主や網元の家の座敷に、大漁旗を張り巡らし、宴席を催す。蛸島では、漁船で神楽を舞い、飯田では、神社にタラを供える。高屋では、鏡餅を小豆の雑煮にして食べる。

 

・七尾湾の起舟

 七尾湾周辺でも、2月11日をキシュウ、あるいはキッシュウといい、漁に携わる人にとっては、エビス講と並び大切な日とされた。この時期は、タラ漁の最盛期にあたり、朝の漁であるアサコの網取りを終え、漁から戻ると、網取り船であるテント船に、大漁旗をたてて祝った。大漁旗をたてた竹竿の先端には、笹束が結ばれた。その後、水主(かこ)は、網元や船頭の家での酒宴に招かれた。

 

・羽咋市〜志賀町の起舟

 口能登の外浦でも起舟が行われている。羽咋市の柴垣漁港では、毎年2月11日を「起舟の日」とし、翌12日から一年の漁が本格的に始まり、アカガレイやハタハタ、アンコウなどが水揚げされる。柴垣町は、日蓮宗の檀徒が多く、平成12(2000)年頃からは、日蓮宗の僧侶による「修法祈願祭」の形で、起舟祭が行われるようになった。この日は、大漁旗をなびかせた約30隻の漁船が港に集結し、漁業関係者が僧侶からお祓いを受け、海上の安全や豊漁を祈願する。

 

 志賀町高浜町の西宮神社では、2月11日に「キッシュウ」と称して、船に大漁旗をあげ、一升瓶の酒を舳先、舵などに注ぎ、海上安全と大漁祈願をする。神社に参拝した後、直会をする。大島漁港では、2月11日の前日の晩を、宵起舟(よいげっしょう)といい、フナダマ様の飾り物などの準備をする。11日早朝には、エビス堂でお祓いを受け、自分の船に鏡餅を供え、酒を舳先と舵に注ぎ、海上安全と大漁を祈願する。

 

・起舟のいわれ

 本来は、冬の間休ませていた舟を起こし、漁に向けての準備・予祝を行う日とされており、まだらなどの舟歌を有するところでは、舟歌を唄って祝う(穴水町中居)など、漁民中心の行事である。また、「あえのこと」でも、2月11日に田打ちを行う農家があったように、農家においても、キショウイワイ(吉祝)・ゴキッショなどと呼ぶ重要な日であった。

 

 元は、中世の吉書に由来する行事といわれ、藩政期には、キッショ(吉初)といって、知行所の農民(十村、肝煎、村役人)などが土産をもって、士家を訪れ、祝詞を述べる日でもあった。支配・被支配関係における新年のあいさつが、豪農と小作者の関係にも及び、農地解放以後は、農家では徐々にすたれ、現在では、網元と従事者にのみ見られる行事となった。キシュウは、新たな一年を迎えるにあたり、労働契約を結ぶことを主眼とし、そのうえでの予祝行事ともみなすことができる。

 

2.アマメハギ

 能登の海岸地帯では、年越しの日に相当する正月6日や節分の晩に、アマメハギと呼ばれる、海の彼方からの来訪神により、正月の年越しを祝い、春を迎える行事が行われている。民俗学では、アマメハギは、秋田県男鹿半島で小正月(15日の晩)に行われるナマハゲと似た意味を持つ行事とされる。

 

 能登では、正月7日の前夜から降りてくる常世の神が、村々の一定の場所から、さらに各家を廻るようになった姿であると解釈され、アマメハギ様が「悪魔を払う」といわれている。アマメとは、囲炉裏(エンナカ)にあたっていると臑(すね)にできる火ダコのことをいう。冬、仕事をしないで火にばかりあたっている者(ナマケモノ)にはアマメができ、そのアマメを剥いで食べてしまうぞと脅してまわるのがアマメハギである。地区の青少年が、恐ろしい仮面をつけ、アマメハギ様となり、歩いて家々を訪れ、怠惰を戒める。現在は、門前町(現:輪島市)皆月、五十洲(1月2日)と能登町内浦町(2月3日)で行われている。

 平成30年(2018年)11月29日には、「男鹿(おが)のナマハゲ」(秋田県)などとともに、8県の10行事からなる「来訪神(らいほうしん) 仮面・仮装の神々」としてユネスコの無形文化遺産に登録された。

 

・輪島市門前町皆月、五十洲のアマメハギ

 皆月、五十州では、現在は、少子高齢化のため、帰省者の多い1月2日に行っているが、もともとは1月6日の晩に行われていた。青年会の有志が、天狗、ガチャ、サルの仮面をつけて、集落の各家を訪れ、子どもをおどかす。一行の前触れとして、子ども連中が、「アマメハギござった。餅3つだいとけや」と大声ではやす。家の主人が餅3個を渡すと、一行は引き上げる。

 

・内浦町(現:能登町)のアマメハギ

 能登町秋吉、河ヶ谷(かがたに)、清真(きよざね)、宮犬(みやいぬ)の4地区では、節分の晩(2月3日)に、現在でもアマメハギが訪れる。集落の小中学生が、鬼面(多くはボール紙製)に蓑姿で、木製の出刃包丁や鉄棒、サイケと呼ばれる酒を入れる手桶を持ち、「アマメをつくっている者はないか―、アマメ―」と大声で家々をまわり、「怠け者はいないか」と小さな子どもをおどし、怠け癖をいさめる。

 

 昭和30年代以前は、ケヤキの皮でつくった面をかぶり、アミノという網のかかった蓑を着て、右手にはベン包丁を、左手には赤紙を張った手籠を持って、3、4人1組で訪問した。子どもたちは、「アマメハギがござるぞー」と前触れをして歩いた。

 

・昭和30年代以前のアマメハギ

 昭和35(1960)年に書かれた四柳嘉孝著「能登半島年中行事」によると、当時、アマメハギはすでにほとんどすたれていたが、約40年前(1920年頃)まで、相当厳しく行われていたという。

 

 当時、輪島市名舟町、鵠巣地区、大屋地区では、子どもたちが、「アマメハギが来たぞ―」といって、家々を廻って餅をもらって歩くことがかろうじて行われていたようだが、現在では見られない。輪島市鵠巣地区大谷内では、すでにアマメハギは行われなくなっていたが、大正末期(1920年頃)までは、やはり1月6日の年越しの晩に行われていたという。服装は、蓑を着て、足にはキャハン、手にはコシアテをし、右手に本物の包丁を持つ。ケヤキの木の皮をはいでつくった恐ろしい鬼の面をかぶり、家々の戸を開け、「アマメンヤ―、アマメンヤ―」と大声を出しながら、「餅を出せ」と催促し、ゴテから一行の人数だけの餅を受け取ると、次の家に向かった。

 

3)特徴的な知恵や技術

 昭和30年代以前、里山里海の農林漁業において日常的に使われていた知恵や技術は、年中行事における知恵や技術そのものといえる。

 
 虫送りで使う松明には、里山の竹と杉葉が用いられ、あえのこと行事で使う田の神の籾俵(依代)は、稲藁を編んで作る藁細工である。藁細工を作ることは、昭和30年代以前における、農家の農閑期の仕事でもあったが、里山の資源を利用した藁細工や竹細工などの加工技術や知恵は、現代生活では、必ずしも必要がなくなり、伝承も途絶えつつある。そのため、籾俵を編むことができる人も少なくなり、あえのこと行事で籾俵を調達できないという事態も生じつつある。

 

4)生物多様性との関わり

 農林漁業における収穫のめぐみは、多くの生きものに支えられている。年中行事には、生きものがもたらすめぐみへの感謝と、豊作・豊漁への祈りが強く込められている。一方、農業や林業は、病害虫やイノシシ、シカなどの害獣との戦いの歴史でもあり、「虫送り」などの行事は、こうした生きものを追い払うために行われている。

 

5)里山里海との関わり

 能登の年中行事は、四季の農業、林業、漁業に密接に関わりを持ち、時節や作業の節目ごとに行われてきた。行事が行われる場所は、家の中や船、港、田、里山など、日常的な生活・生業の場所が中心である。また、かつては、普段は口にすることのできなかったご馳走(お餅やおはぎ、甘酒など)を、労働をともにする仲間や家族と楽しむ場であったとも考えられる。

 

 祭礼神事は、神社を核とした集落共同体で行われることが多いが、年中行事は、家を単位として家ごとに行われるものが多い。それゆえに、戦後、家の生業や生活形態が変化することによって、行事の内容が簡略化されたり、意味を失って行われなくなってしまったものも多い。しかし、現代社会においてもなお、能登には、多様な行事が暮らしに根付いて生きている。それは、能登には、里山里海の自然のうつろいに合わせた暮らしと、独特の神仏への信仰が色濃く残っているからだと考えられる。

 

 今でも能登では、旧暦の3月3日の節句(奥能登ではショクという)に餅をつき、菱餅にして神仏に供える。また、9月9日の重陽の節句には、甘酒を作り、やはり神仏に供える。このように、年間の節目となる日を祝い、神仏に食物を供える風習が根強く残るほか、二十四節気の小寒と大寒(1月6日頃から2月4日までの期間)の時期になると、味噌を作ったり、ダイコンなどの野菜を干し(寒干し)、漬けものを仕込んだりすることが、生活の中で自然に行われている。


 しかしながら、このような暮らしの担い手は、主に80歳以上の年配者であり、家々でつつましくも脈々と受け継がれ、営まれてきたこれらの行事・風習の多くが、伝承されずに失われてしまうことが危惧されている。

 

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