河北門

金沢城の実質的な正門である「河北門」が、
約130年ぶりに往時の姿でよみがえりました。

河北門は高麗門である「一の門」、櫓門である「ニの門」、「枡形土堀」及び続櫓の機能を持つ
「ニラミ櫓台」により防御機能を持った構成となっています。

 「河北門」は、金沢城の大手から入り、河北坂を上がったところに位置する「三の丸の正面」であり、金沢城の実質的な正門です。「石川門(重要文化財)」と「橋爪門」と共に「金沢城三御門」と呼ばれていますが、金沢城の建物の大半が焼失した宝暦の大火(1759年)の後、安永元年(1772)に再建されました。
 再建された河北門は、明治15年頃に無くなるまで金沢城の実質的な正門としての役割を果たしていました。
 約130年ぶりに甦った河北門は平成19年11月に着工し、平成22年4月まで約2年半の歳月をかけて完成しました。
 復元にあたっては、現存する絵図、古写真、文献及び埋蔵文化財の調査結果を踏まえて、史実を尊重し、日本古来の伝統工法によって、戸室石による石垣積み、漆喰仕上による白壁、軸組をはじめとする木工事及び屋根鉛瓦葺きなど、構造・仕上部材の細部にわたり石川の匠の技が発揮されています。

河北門復元資料

 天保元年(1830)の「御城中壱分碁絵図」や明治期の古写真は、河北門を復元するための重要な資料となっています。
 また、埋蔵文化財調査によって発掘された礎石などをそのまま活用して復元しています。

ニの門

 枡形内部側が二の門の正面となり、石落し付きの出し(出窓)が設けられています。門扉、柱、梁には厚さ3 ㎜の鉄板(帯鉄)が鋲で止められていて防御性を高めた装飾が施されています。
櫓部分(2階)内部の壁や床などには檜の一種である能登ヒバが石川門同様に用いられています。

一の門

 一の門は、三の丸に入るための最初の門であり、幅4.7m 、高さ7.4m総欅造りで、脇土塀を海鼠壁仕上げとし、土塀の内部側には隠し狭間が設けられています。戦の時には狭間外側の海鼠壁を破って鉄砲狭間として使えるようになっています。

ニラミ櫓台

 宝暦の大火で焼失した河北門は石川門と同様に2 層の櫓がありましたが、安永元年に再建された河北門では、出し(出窓)付きの土塀によるものとなり、これを復元しています。

石垣工事

 金沢城の石垣に使用される石は、その大半が城の東約10kmの戸室山周辺から産出される戸室石を用いています。特に、切り込み接(は)ぎと称する石材を隙間無く積む工法では、石積み作業における微調整に高い技術が求められます。表面での石と石の間は3㎜程度空け、石と石との接点は10㎝程度奥に設けることで、石の継ぎ目が欠けないよう工夫されています。

左官工事

 左官工事は、全体的な工程を管理する上で最も重要なものの1つです。現場の工程として「竹小舞掻き」「荒打」「大直し」「斑直し」「中塗り」「漆喰塗り」の工程を踏まえて壁を仕上げますが、工程ごとに十分な乾燥や凍害を防ぐ必要があるため、河北門では竹小舞掻きを平成21年2月に開始、同年11月に漆喰塗りを完了。土壁施工期間を早春から晩秋までに終えることが出来ました。

木工事

 河北門に使用される木材の材積は約400m³に及び、総て国内産材を用いています。この内約60%が能登ヒバと杉による県内産材でつくられています。
 木組みについては、石川門で用いられている工法を参考に伝統工法による仕口・継ぎ手を用いているほか、構造計算による耐震性の確認を行って決定しています。

屋根工事

 河北門の屋根仕上げについては、石川門や菱櫓等と同様に鉛瓦が用いられています。
 鉛瓦と称していますが、瓦状の板を大工が加工し、その上に板金工事として厚さ約1.8 ㎜の鉛板を取り付けて仕上げるもので、大工と板金工によるものです。

河北門諸元
一の門 高麗門 高さ7.4m、幅4.7m
総欅づくり 鉛瓦葺き
二の門 木造二階建櫓門入母屋造
高さ12.3m 二階床面積220.12㎡(26.909m×8.180m)
鉛瓦葺き 外壁大壁漆喰塗、内壁板壁
ニラミ櫓台 二重塀 出し(向唐破風造) 延長23.9m 幅2.4m
鉛瓦葺き、壁漆喰塗、外側海鼠壁
枡形土塀 築地塀(ついじべい)(内部は石垣積み) 延長29.6m
鉛瓦葺き、外壁漆喰塗り